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徒然草子

「徒然草子」とは吉田兼好の「徒然草」と清少納言の「枕草子」をもじって付けた造語です。
私の「心に移りゆく由無し事」をエッセイ風に書き綴ってみたいと思います。

Vol.6「アルバム」(1999.11.21)
Vol.5「新幹線と富士山」(1999.1.18)
Vol.4「セミ」(1997.8.17)
Vol.3「桜」(1997.8.2)
Vol.2「花粉症」(1997.3.21)
Vol.1「祖父の半纏(はんてん)」(1997.2.20)


Vol.6 (1999.11.21)「アルバム」

 一人暮らしの休日、所在なく日本からシンガポールへ赴任するときに持参したアルバムを見た。そのアルバムに収められている写真は、高校の卒業式・成人式・大学時代の4年間・卒業旅行で行ったヨーロッパ、そして新婚旅行の時に撮影したものである。アルバム数にして9冊、18歳から28歳までの記録である。

 パラパラとめくって見ると懐かしい顔ぶれが並んでいる。その中に紛れ込んでいる自分の姿を見つけると、それまで忘れていた当時の思い出が鮮明に蘇って来て私をその時代へ誘ってくれた。
成人式の私は髪にパーマをかけ、先の尖った靴を履き、派手なストライプのネクタイ、という今見ると赤面してしまうような出で立ちである。私の横に並んで写っているリーゼント頭の友人は昨年突然この世を去り、今はもういない。大学時代の写真にはいつもトレーナーにジーンズという着た切り雀の自分を発見する。一緒に写っている友人も同じようなものではあるが…。

 人生を仮に80年とした場合、18歳から28歳までの10年間は単なる八分の一にすぎないが、多くの人にとってその密度は非常に濃くまた変化が激しい10年間ではないかと思う。他の期間の倍以上のエネルギーを使わないと駆け抜けることができないだろうし、またそれだけのパワーは誰しも持っている。私は36歳になった今でもそのパワーが衰えたとは思わないが、正直言って年々背中に背負う物が大きくなり息切れしそうになってきた。そんな時にアルバムの中にいる、あの若さに満ちあふれ全速力で突っ走っていた時代の自分が、私の頭の中にある漠然とした将来に対する不安や悩みをしばしの間消し去ってくれた。
これから先、今よりもっと困難なことが待ち受けているかもしれないが、そんな時にはまたこのアルバムを引っぱり出して活力をもらうことにしよう。
 このアルバムを見て、「あの頃は良かったなぁ…」とだけは決して思うまい。


花の色はうつりにけりないたづらに 我が身世にふるながめせしまに (小野小町)
 

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Vol.5 (1999.1.18)「新幹線と富士山」

 私の好きなものに新幹線富士山がある。子供の頃、毎日見ていたNHKの「おかあさんといっしょ」という番組でよく「新幹線の歌(正確な題名不詳)」が歌われていた。その時にバックで流れていたのが富士山を背景に鉄橋を渡っている新幹線の映像だった。おそらく、このときに見た映像が私の心に強い印象となって焼き付けられ富士山と新幹線がセットとなって好きなものと感じるようになったのであろう。

 私の母親の実家が秋田県にあり夏になると毎年家族で遊びに行っていたが、私の記憶では新幹線を使ったことはたったの一度だけである。おそらく記憶が完成する年頃までは毎年新幹線を使っていたはずだが、私の記憶が確かなものとなった小学校1年生の頃、我が家は車を購入し、それ以後新幹線を利用して秋田へ行くことがなくなったからである。車で秋田へ行く道中、東京まで東名高速道路を利用したので富士山の前は必ず通ったのだが、東京の交通渋滞を避けるために夜中に愛知県を出発していたので、残念なことに暗闇の中では富士山を見ることはできなかった。

 私が実際にこの目で富士山を見ることができたのは東京の大学へ入学した後、帰省時に愛知県との間を往復する時だった。しかし、悲しいかな学生時代はお金が無く今度は新幹線に乗ることが出来ない。大好きな新幹線に乗り、車窓から富士山を見るという願いは叶えることができなかったのである。だが、東海道本線の普通列車に揺られながら見る富士山は、新幹線や東名高速から見るそれとは違ってその姿はゆっくりと移動する。大好きな富士山をじっくり見られるのだからそれはそれで良かった。ただ、富士山が完全に視野から消える頃にはすっかり首が痛くなってしまったが…。

 新幹線の車窓から富士山を眺めるという願望を満たすことが出来るようになったのは、大学を卒業して名古屋に本社がある会社に就職してからである。出張の為、月に一度は新幹線を利用して東京へ出かけたが、多くの場合出発は早朝でいつも新幹線は仮眠のベッドとなってしまい富士山の前を寝て通り過ぎていくことが多かった。なんとももったいない話である。


田子の浦ゆ うち出でてみれば真白にぞ 富士の高嶺に雪は降りける (山部赤人)
 

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Vol.4 (1997.8.17)「セミ」

 私の実家がある愛知県地方では、毎年7月20日前後にセミが啼き始める。7月20日といえば子供たちの夏休みが始まる頃である。今はもう子供のような長い夏休みはないが、大人になった今でも私はセミが啼き始めると「ああ、今年も夏が来たなぁ」と実感するのである。

 愛知県地方でその時期に啼き始めるのはクマゼミである。もちろんアブラゼミもいるが、「セミ=クマゼミ」というくらい、「シャーシャーシャーシャー」うるさく啼くのである。昔はエアコンなどなかったから夜でも窓を開けて寝ている。朝はクマゼミの啼き声で自然に目が覚めてしまうほどである。
 今住んでいる東京地方では、クマゼミの啼き声は残念ながら聞くことはできない。クマゼミの生息地域は中部地方以南だからである。こちらの代表的なセミといえば、ミンミンゼミである。ところが、私の実家周辺にはミンミンゼミはほとんどおらず、啼き声を聞いたことがなかった。だから、子供の頃読んだ本のなかで、セミの啼き声は必ず「ミーン、ミーン」と表現されていたので不思議でしょうがなかった。クマゼミの啼き声をいくら耳をそばだてて聞いても「ミーン、ミーン」とは聞こえなかったからである。

 お盆の頃、夕方墓参りに行くときまって「カナカナカナ」と侘びしげに啼き出すのがヒグラシであった。私の中では「ヒグラシ=線香の香り」という図式ができあがっているくらいだ。そして、8月も半ばが過ぎ秋の気配が漂い始める頃クマゼミはもうほとんど啼かなくなり、代わってツクツクボウシが主役となる。この声を聞くともうすぐ夏休みも終わりだと思ったものである。
 今日現在、まだツクツクボウシの声は聞こえてこない。ツクツクボウシが啼く期間が長びけば、それだけ残暑が続くことになる。私の大好きな夏がもう終わってしまうのか、それともまだ続くのか。それはツクツクボウシの啼き声にかかっているのである。


閑かさや 岩にしみいる せみの声 (松尾芭蕉)
 

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Vol.3 (1997.8.2)「桜」

願はくは 花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ (西行)
深草の 野べの桜し心あらば 今年ばかりは墨染めに咲け (上野岑雄)

 丸谷才一氏に「桜もさよならも日本語」と言う題名の著書がある。(昭和61年 新潮社)この本は昭和49年に出版された「日本語のために」(新潮社)の続編とでもいえるものである。氏はその著書の中で、国語教科書批判や現代日本語の問題点を用例を挙げながら鋭い視点で論じている。今ここで、日本語論を展開するつもりは毛頭ない。本の題名となっている「桜」と「さよなら」である。「さよなら」については別に述べるとして、ここでは「桜」についてふれることにしよう。

 毎年、3月になると桜前線なるものが南から北上し始め、東海から関東にはおおむね3月下旬にやってくる。咲いている桜の花を見るたびに、冒頭の二つの和歌が私の頭に浮かんでくるのである。この二つの和歌に出会うまでの私は、どちらかといえば桜はあまり好きではなかった。桜が咲くころは雨も多く、地面に落ちて泥にまみれた桜の花びらが薄汚く見えたからである。
 西行の歌は、彼の辞世の句である。北面の武士というエリートの地位を23才の時に突如出家をして捨て去り、以来50年近く日本全国を行脚して廻った。最期にこの歌を詠んだ時の西行の気持ちは、自分の人生に対する満足感できっと満たされていたと私は思う。
ほどなく、西行は安らかにその願いを叶えたのである。

 桜の季節が来ると思い出す、もう一つの歌が上野の歌である。(この歌の作者はこの一文を書くまで知らなかった。)私がこの歌を知ったのは、「あさきゆめみし」(作:大和和紀)という漫画を読んだ時であった。「あさきゆめみし」は源氏物語の漫画版といったもので、私が高校生の頃結構流行っていたのだ。
 藤壺の宮が亡くなった時に光源氏が悲しみにくれる場面で、この歌が詠まれていたのである。光源氏の藤壺の宮に対する深い愛情とその死を悼む深い悲しみを、この歌が見事なまでに表現していた。そして、光源氏の悲しみが届いたのか、一夜にして満開の桜はすべて散ってしまったのである。
 風に吹かれて舞い散る桜吹雪は本当に美しいが、私にはどこかもの悲しく感じられてしょうがない。

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Vol.2 (1997.3.21)「花粉症」

 私は毎年2月14日が近づくと非常に憂鬱な気持ちになるのである。別にその日がバレンタインデーで「チョコレートを一つももらえないかもしれない」などという心配事が原因なのではない。(高校生の頃まではそうではあったが...)
 実は私はひどい花粉症で毎年きまって2月14日頃発病するのである。季節感を感じることが少なくなったこの現代社会で、この「花粉」は私に春の到来を感じさせてくれる数少ないものの一つである。
 今私は春の到来を体全体で感じ取っている真っ最中である。目ん玉はくり抜いてジャブジャブと水の中で洗ってやりたいくらい痒い。鼻は寝ている時には詰まってしまい息苦しさで夜中に目が覚めてしまう。起きている時は鼻水が次から次ぎに湧き出してくる。自分の意志では止めることもできず、ただ強制的に鼻をかんで外へ出すのが精一杯の抵抗である。薬を飲めばある程度症状は治まるが、副作用で小便が近くなるしまた眠気を催すのでできれば飲みたくない。

 大学受験当時の私がまず心配したのは「試験の当日に鼻水が止まらなかったらどうしよう」ということだった。花粉症の症状を抑えることが英単語を覚えることよりも大学合格への鍵だったのである。
 就職してからも、この2、3月は年度末の為ただでさえ忙しいのに花粉症のため一日中体調がすぐれず、ついイライラしてしまう。4月に入れば症状は随分和らぐが、毎年の事ながら本当にこの時期はつらい毎日である。花粉症のおかげで寿命もだいぶ短くなるのではないかと思う。できるものなら、戦後の植林政策で杉ばかりを植えた政府に対して損害賠償請求をしたいくらいである。
 どなたか花粉症の特効薬を発明してはくれないだろうか。そう簡単にはできそうもないので歌でも詠って自分を慰めるしかなさそうである。


世の中に 絶えて花粉の無かりせば 春の暮らしは楽になりけれ (Nanawo)

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Vol.1 (1997.2.20)「祖父の半纏(はんてん)」

 今は亡き祖父が私に残した半纏。正確に言えば祖父の死後、祖父の部屋を整理していた時に箪笥の中から出てきた半纏。誂えただけで一度も袖を通していないその半纏を、家族の誰が言い出した訳でもなく私が所有するところとなった。以来、毎年冬になると私はこの半纏に上半身を包み、心地良い暖を採っていた。

 私には身の回りの物に「擬人化した呼び名」を付ける癖があり、私はその半纏を祖父の名前から「新太郎さん」と呼んでいた。そして、妻もまた何時しかそう呼ぶようになった。
 いよいよ今冬もお世話になろうかと思い、妻に「新太郎さん」を箪笥から出してくれるよう頼んだところ見あたらないと言う。私も先程妻が探したばかりの箪笥や押入の隅々まで探して見たが、どこにもない。「昨年の春にクリーニングへ出したまま取りに行っていないのでは」と私が妻に言うと、「そんな筈はない」とのこと。日を措いてもう一度家中を探しては見たが、杳として行方がわからない。
 仕方なく、今年は半纏の代わりにカーディガンを羽織っているが、暖かさが半纏の比ではない。それに何よりも落ち着かないのである。夜仕事を終えて帰宅し、スーツから普段着へ着替え半纏を羽織って、そこで初めて昼間の緊張感から解放されたような気分になれるのだ。
 妻は「新しい半纏を買っては?」と言うが、今年はそんな気にはなれない。ふっと、どこかから出てくるような気がまだしているからである。もう14年間も毎年着続けた半纏だけに、また亡き祖父の形見といえば大げさだが思い出が染み込んだ半纏だけに、そう簡単には諦めがつかないのである。

 2月も半ばを過ぎ、さすがに私も「もう出てこないのでは」と観念し始めた。そしてこんな都合の良いことを考えるようになったのである。1月の末に長女が誕生したのだが、「新太郎さん」は新しい生命の誕生を見届けて私の前から消えて行ったのでは、と。妻にこのことを話せばきっと「何を馬鹿なことを言ってるの」と一笑に付されるであろう。

 去る者は日に疎し、思えばもうすぐ15回忌を迎える亡き祖父を思い出すのは、この半纏を着る時だけになっていたのかもしれない。

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